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8,000mという世界は、酸素・気圧が平地の三分の一という世界です。
例えば、羽田空港から関西空港までの飛行時、飛び立って約20分後に安定飛行に入り、安全ベルト着用のサインが解除されます。そのあたりがちょうど8,000m付近にあたります。その辺の山の気温はマイナス15~マイナス45度という世界です。私は、敢えて、その過酷な条件に無酸素でチャンレンジしています。
それは第一に、 8,000mという未知の世界を『天から与えられた己の心臓と肺だけで登りたい』、己の身体のみで8,000mの全てを感じたいからです。8,000mで毎分4Lの酸素を吸っていると、外見上は8,000mにいたとしても、身体の内部は6,500mあたりの環境となんら変わらないということです。
第二に、大好きな山の自然に負荷をかけないということです。通常、多くの登山家は、何十人ものスタッフを従え、大量の酸素ボンベを使用します。使用されたボンベは、そのまま山に捨てられているのが現実です。ものすごいボンベの量が、大好きな山々に捨てられているのです。私は、自分のスタイルを追求した結果、最小限のスタッフと装備、そして、酸素ボンベを使わない、捨てないという考えに行き着いたのです。
無酸素登頂ってなに?
無酸素こそ高所登山最大の問題で、人工的な酸素補給は
その障壁を取り去るに等しいと小西は考える。
無酸素で 8000m 峰に登るのがどれだけ大変なことか。それはエベレストのネパール側第 4 キャンプ( 7950m )に使い古しの酸素ボンベのごみの山があることで察せられる。 1999 年春にエベレストの頂に立ったのは 117 人いるが、無酸素だったのは 5 人だけだった。
小西が北陽高校二年、登山を始めて二年が経過した 1978 年、イタリア人のラインホルト・メスナーが人類で始めてエベレストを無酸素で登頂した。
8000m の高所はデスゾーンと呼ばれ、人体の限界に近い。低酸素(酸素分圧量 30 %)、低気圧(平地の三分の一)、低温(マイナス 10-35 度くらい)。これが自然条件になる。人間の体の構造条件を超えたところに、それも酸素ボンベを使わずに登ることは並大抵のとこではない。低酸素によって、精神的にネガティブになり、怒りっぽくなり、泣いたり悲観的になる。かと思うと、突然、ハイテンションになったり、感情が極端に不安定になるのだ。そして、低気圧はひどい頭痛をもたらす。高度順応を怠れば、発熱し、喉がいたくなり、風邪に似た症状が出る。早く登ろうとすると体が酸素を取り入れなくなる。どのくらいのスピードが 8000m 峰の登山に適しているのかは、己の経験からしか知りえない。
1978年 ラインホルト・メスナーがエベレスト無酸素登頂に成功。
「エベレストに登る、無酸素日本人初は自分だ。そう思っていた私にとって世界一のクライマーになるということは夢ではなく、はっきりとした人生の目的でした。だから一刻も早く、ヒマラヤに行って、自分の体が高所に適しているかどうか確かめたかったんです。」
世界の 8000m 峰 14 座すべてに無酸素登頂したのはメスナー(イタリア)とロレタン(スイス)だけ。小西は 2004 年現在で 6 座に登頂しており、これは日本人最多記録である。今、世界でこの峰々に無酸素で挑戦しているのは韓国人のパク・ヨンスクとイタリア人のハンス・カマランダーである。
8000 m峰全 14 座に、世界で初めて無酸素で登った人で、世界最強と言われるクライマー。
1944 年イタリア北部、チロル地方に生まれ、5歳で父親と一緒に登山を始め、 10 歳でザイルを使ったクライミングを覚え、10代の終わりには、ヨーロッパアルプスの高い山を全て登り尽くしてしまったという経歴を持つ。その登山スタイルは少人数、あるいは単独。
しかし凍傷で足の指を6本も切断したり、最高のパートナーでもあった弟を雪崩で失ってしまったりなどの山での悲劇も経験している。その悲劇を乗り越え、 1980 年には、標高 8848M 世界最高峰のエベレストに、無酸素単独での登頂という、当時としては驚異的な記録をうち立 てている。その後も、 1989 年には南極大陸徒歩縦断を行ったりと、冒険家の極みである。
「クライミングとは死の危険をはらんだ極めて困難な状況の下で生き延びる術です。最高のクライマーとは途方もない事を 1,2度やってのけ、その次には死んでしまうような人間ではありません。最高のレベルことをたくさん成し遂げ、しかも生き残る人間です。
( ラインホルト・メスナー 「ビヨンド・リスク」より)